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福岡地方裁判所小倉支部 昭和59年(ワ)311号 判決

原告 古賀イツヱ

〈ほか三名〉

右四名訴訟代理人弁護士 小川章

被告 吉田公彦

右訴訟代理人弁護士 永松達男

主文

一  被告は、原告古賀イツヱに対し金五〇〇万円、その余の原告らに対し各金一六六万六六六六円及び原告古賀イツヱについては内金四五五万円、その余の原告らについては各内金一五一万六六六六円に対し、昭和五九年四月一九日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文一、二項と同旨の判決及び仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1(一)  訴外古賀幸次郎(以下「亡幸次郎」という)は、次の交通事故(以下「本件事故」という)により脳挫傷、頭蓋骨骨折、右腓骨骨折等の傷害を負い、その結果昭和五八年五月三一日植物人間状態となって症状固定した。

(1) 日時 昭和五八年一月一六日午前四時ころ

(2) 場所 北九州市八幡西区大字浅川六八四番地先路上

(3) 加害車 被告運転の普通乗用自動車(北九州五六―七三二〇四号)

(4) 態様 加害車を運転する被告が、折尾方面から若松方面に向け進行中、わき見運転していたため、前方左側車道を歩行していた亡幸次郎に気付かず、加害車を同人に激突させた

(二) 責任原因

被告は、加害車の保有者であり、本件事故当時これを自らの運行の用に供していたから自賠法三条により亡幸次郎が本件事故により蒙った損害を賠償する責任がある。

(三) 和解契約

被告と亡幸次郎は本件事故に関し、昭和五八年一二月一三日、次のとおり和解契約(以下「本件和解」という)を締結した。

(1) 本件事故による亡幸次郎の人身損害は、自賠法施行令別表一級三号の後遺症による損害を含め(治療費を除き)金二九七〇万円であること及び内金一二〇万円は支払済であることを確認する。

(2) 被告は亡幸次郎に右残額金二八五〇万円を支払う。

(3) 昭和五八年八月三一日までの治療費相当額については、被告が直接病院に支払うこととする。

そして、右和解金の支払につき、後日双方間で昭和五九年一月末日限り支払う旨約された。

(四) 相続

亡幸次郎は、昭和五九年一月一二日死亡し、その権利義務を妻である原告古賀イツヱが二分の一、その子であるその余の原告ら三名が各六分の一宛相続した。

(五) 和解金の不払

被告は、右(三)の和解金の内金一九四〇万円を支払ったので、原告らは相続分に応じこれを受領したが、残金九一〇万円を支払わないから(四)の相続分に応じ、原告古賀イツヱは金四五五万円、その余の原告はいずれも金一五一万六六六六円(円未満切捨)の和解金支払請求権を有する。

2  仮に、本件和解に基づく請求が認められないとしても、被告は原告らに対し、左記の損害を賠償する義務がある。

(一)(1) 付添看護料

亡幸次郎は、昭和五八年一月一六日から死亡した昭和五九年一月一二日まで三六二日間入院し、一日当り金八〇〇〇円、合計金二八九万六〇〇〇円の付添看護料を支出した。

(2) 入院雑費

一日当り金一〇〇〇円とすると、右入院期間中の合計は金三六万二〇〇〇円である。

(3) 慰謝料

(イ) 死亡慰謝料等

亡幸次郎は、本件事故前は至って健康であり、本件事故当時六六歳で、平均余命は一〇有余年あるにも拘らず、回復見込みのない植物人間状態となって死亡したのであり、しかも本件はひき逃げ事案であるから、これら加算事由を考慮すると、その慰謝料は金一四四二万二〇〇〇円が相当である。

(ロ) 傷害慰謝料

亡幸次郎は、本件事故後死亡時まで約一年間入院加療を受けたが、その間症状としては発語不能、食事摂取不能の為鼻腔より胃管カテーテルにて栄養補給、呼吸困難の為気管カニコーレを挿入し抜去不能、四肢強直の為常時臥位状態の植物人間となり、甚大な精神的苦痛を蒙ったのでその慰謝料は金五〇〇万円を下らない。

(ハ) 近親者慰謝料

亡幸次郎の右(イ)、(ロ)の症状による死亡を考慮すると、原告らの蒙った精神的苦痛は筆舌に尽しがたく、その慰謝料は原告古賀イツヱにつき金二〇〇万円、その余の原告らにつき各金一〇〇万円が相当である。

(4) 逸失利益

亡幸次郎は、本件事故当時六六歳四ヶ月であったから、六七歳に達するまで八ヶ月間は稼働可能であり、その間月額金二三万五〇〇〇円程度の収入を得ることができたので、生活費としてその四割を控除すると、次のとおり金一一二万円の得べかりし利益を喪失した。

23万5000×8×(1-0.4)=112万8000≒112万(円)

(5) 葬儀費用

原告らは、亡幸次郎の葬儀費用として、少なくとも金九〇万円を支出した。

(二) 損害の填補

前記のとおり、金二〇六〇万円が支払われたので、原告らは残金九一〇万円を前記1(五)のとおり相続した。

3  弁護士費用

原告らは、本件訴訟の追行を原告ら代理人に委任したが、原告らが支払う報酬のうち、原告古賀イツヱについては金四五万円、その余の原告らについては各金一五万円は被告が負担すべきである。

4  よって被告は原告古賀イツヱに対し、金五〇〇万円及び弁護士費用を除く内金四五五万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五九年四月一九日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、その余の原告らに対し、各金一六六万六六六六円及び弁護士費用を除く各金一五一万六六六六円に対する前同日から前同年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1はすべて認める。

2  同2、3は争う。仮に、亡幸次郎の死亡による損害を算定しても、

(一) 逸失利益 金九四万円

(二) 死亡による慰謝料 金一二〇〇万円

(三) 葬祭費 金九〇万円

の金一三八四万円であり、これに看護料等諸雑費を加算しても被告の支払った金二〇六〇万円に及ばない。

三  抗弁

1  本件和解契約の無効ないし失効

本件和解契約は、次のとおり金九一〇万円の限度において無効ないし失効したものである。即ち、

(一) 亡幸次郎は、本件事故後医師から、意識障害によりいわゆる植物人間として症状固定と診断され、その後同年八月五日には自賠責保険より、後遺障害一級三号の認定を受けた。

(二) 右後遺障害確定後、任意保険会社の担当者が示談交渉に入り、左記条件を提示した。

(1) 障害による慰謝料 金一二〇万円

(2) 看護料 金一〇三〇万円

但し、一ヶ月一〇万円の一一年分の現在価格

(3) 後遺障害慰謝料及び逸失利益 金一六二〇万円

但し、慰謝料を九〇〇万円とし、逸失利益については、亡幸次郎が無職者であって、原則として逸失利益はないが、一ヶ月一一万七二〇〇円程度の収入と残余の就労可能年数を六年として、ホフマン係数五・一三四により中間利息を控除した金額七二二万円の合計

以上合計金二七七〇万円

(三) 示談途中より、原告及び被告両代理人弁護士が示談に関与し、種々交渉の結果、右原案に二〇〇万円を加算した金二九七〇万円にて本件和解に至ったものである。

(四) ところが、本件和解後、右和解金の支払手続中である昭和五九年一月一二日、亡幸次郎が死亡した。

本件和解において、その経過から判明するとおり、その看護料一〇三〇万円は、亡幸次郎が本件事故後一一年間植物人間状態で生存するとの前提で算定したものであるところ、亡幸次郎は事故後一年足らずして死亡したものであるから、本件和解の前提たる事実が覆ったことになる。

したがって、本件和解のうち、看護料(但し、本件和解成立時までに、亡幸次郎がすでに金一二〇万円の看護料支払債務を負担していたので、これを控除した残金九一〇万円の限度で)を定めた点については、要素の錯誤により無効であり、然らざるとするも、信義則並びに衡平の原則に照らし、失効したものである。

四  抗弁に対する認否

すべて争う。亡幸次郎は、本件和解成立当時六七歳の高齢であり、しかも植物人間状態となっていたのであるから、平均余命年数を待たず死亡することがあるやも知れぬことは当然予想し得たのであり、本件和解について要素の錯誤は存しないし、本件和解成立に至る経過をみても、信義則、衡平の原則に違背して失効するとされる事情も存しない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1の事実については当事者間に争いがないので、本件和解の無効ないし失効を主張する抗弁について判断する。

右当事者間に争いのない事実に《証拠省略》を綜合すると、以下の事実が認められる。

亡幸次郎(大正五年九月一一日生)は、昭和四六年九月新日鉄を定年まで勤め上げた後下請運送会社に再就職し、昭和五一年ころ同社を六〇歳で退職してから年金生活に入る傍ら、暫は長男の経営するコンビニエンスストアーの手伝いを、本件事故前ころは自宅の畑で野菜作りや近所の草むしりをするなどの健康な生活を送っていたこと、本件事故当日は、日課である早朝散歩に出て午前四時ころ本件事故に遭遇したが、いわゆる轢き逃げ事故であったため路上に放置され、その後通行人に発見されて同日午前八時半ころ救急病院である健和総合病院に搬送されたが、すでに脳挫傷等のため意識を喪失していたこと、亡幸次郎は、その後同病院に同年二月二六日まで四二日間入院しこの間には肺炎、尿路感染症を併発して危ぶまれたこともあり、同二六日から佐々木病院に転院しても、意識の回復を見ないまま鼻腔より胃管カテーテルで栄養補給、呼吸困難のため気管カニコーレを挿入し抜去不能、四肢強直のため常時臥位状態のいわゆる植物人間状態となり、回復の見込みは皆無として同年五月三一日医師により、症状固定との診断を受けたこと、このため妻である原告古賀イツヱは、健和総合病院において少なくとも三〇日間、佐々木病院においては職業付添婦を雇い入れて一日当り金七八九二円(紹介料を含む)を支払う傍ら、医師からも、何時容体の変化があるやも知れぬことを聞かされていたため、自らも終始これに付き添う生活を送ったこと、一方、同年四月ころには、被告の加入する保険会社である訴外日動火災保険の担当者(以下「被告側」という)と原告古賀忠幸(以下「原告側」という)との間で、亡幸次郎の症状固定後に示談交渉に入ることで合意されていたが、本件事故前後の事情や亡幸次郎の症状から、原告側の被害感情は特に強かったこと、その後原告側と被告側に示談交渉が持たれた(なお治療費については、同年八月末分までは被告において実質を直接病院に支払い、九月分からは老人保険法による医療給付に切り替えられた。)が被告側は保険会社の査定基準に則り、(1)傷害慰謝料については金一二〇万円、(2)後遺症慰謝料については金九〇〇万円、(3)逸失利益については金七二〇万円を提示したものの原告側は慰謝料についてはこれを承服しなかったこと、被告側は、右慰謝料の査定金額は動かさなかったものの、被告側の最後の誠意として、査定基準に反しない限度において介護料につき月額一〇万円の割合でその一一年分を新ホフマン方式で算定した金一〇三〇万円(10万×12×8.5901=1030万8120円)を提示したこと、これに対し原告側は、同年九月ころ原告ら代理人にその交渉を委任し、同代理人は同年一〇月三一日被告側に対し、(1)傷害慰謝料については症状固定時期にやや問題が残るが、右固定時期の判断が医師の見解によるのであれば提示額である金一二〇万円も止むを得ないこと、(2)後遺症慰謝料、逸失利益の提示額は止むを得ないが、他に近親者慰謝料として金六〇〇万円、事故態様(轢き逃げ)を考慮して慰謝料二〇〇万円の増額、(3)入院雑費の他原告古賀イツヱの交通費、紙オムツ代の実費、そして(4)介護料については、亡幸次郎が常時監視介助を要するため、示談成立時までは実費を、その後は被告側の査定基準による金額を各希望したこと、その後被告側については被告代理人が示談交渉の委任を受け、原告ら代理人とも折渉の結果、原告側においても、介護料として被告側の提示した金一〇三〇万円が計上されるならば、敢えて実費も主張せず、又慰謝料についても異議を述べないとの態度を示したため、結局被告側案に雑費等の名目で金二〇〇万円を加算した総額二九七〇万円で双方とも今後何らの異議を申立てないことを約して本件和解が成立したこと。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

ところで、介護料は、実費補償的性格を持つものであるところから、被告は先ず、本件和解において一一年間の介護料を算定したにも拘らず、亡幸次郎が本件和解成立後一月足らずで死亡したのであるから和解の前提事実に要素の錯誤が存する旨主張する。しかしながら右認定事実、就中亡幸次郎の年齢やその重篤な症状(いわゆる植物人間状態は、臨床的予後としては死亡に次ぐ最悪のものであり、《証拠省略》によると、被告側では、植物人間状態にある者の八五パーセントが五年内に死亡しているとのデーターを有していたことや、勿論亡幸次郎の主治医から十分にその容体を聴取していたことも認められる。)によると、亡幸次郎がその後一一年もの間生存する可能性はむしろ少ないばかりか、何時容体が急変して死亡するに至るかも知れないことは双方とも十分に認識し、これが事態をもすでに織り込んだうえ本件和解に至ったものであり、にも拘らず介護料として金一〇三〇万円もが算定されたのは、実質的には保険会社における損害査定項目と査定基準に依拠する被告側と、これを肯じず慰謝料等の増額を求める原告側との間で、和解金総額において妥協点を求めるため、その一部をもって慰謝料を補完する目的をもった調整措置に過ぎなかったものといわざるを得ない。(仮に、一日当り金七八九二円を支出するとして、その一一年分を新ホフマン方式により計算すると、金二四七四万円にも上る。)

従って、本件和解中、介護料の点についてはその算定の基礎となった亡幸次郎の生存期間が和解の前提事実であり、しかもこの点において要素の錯誤が存するとの被告の抗弁は採用できない。

ただしかしながら、右のとおりであったとしても、本件和解は前示のとおり亡幸次郎の向後の生存期間が確定できないため、相当期間の介護料を斟酌せざるを得ない状況下でなされ、前記介護料は、一部慰謝料等を補完する側面と同時に、実質介護料を定めた側面をも有し、しかも本件和解成立後一月足らずにして亡幸次郎の死亡をみたというのであるから、その時期の接着性を考えると、和解金総額が右の経過をたどった亡幸次郎の死亡により本来求め得べき相当損害金に比して、その範囲を著しく逸脱し、本件和解の経過、時期、その他諸般の事情に照らしてその合意をもって当事者を拘束することが信義則に反する場合、本件和解の全部又は一部が失効するとみる余地もあるのでなお検討を進めるが、前記認定のとおり原告側は亡幸次郎の介護に関し、本件和解成立時において既に一日当り金七八九二円の介護料の支出を余儀なくされ、しかも前掲各証拠によると、亡幸次郎は原告古賀イツヱと夫婦二人暮らしであり、その症状から生命を維持するため自宅における介護は不可能であったこと、このため原告側は、その生存期間の長短に拘らず同人を終生入院させると共に、同額の割合による介護料を一切原告側において負担するとの前提で、被告側も、爾余一切の賠償を打切るとの趣旨で本件和解をなしたこと、本件介護料金一〇三〇万円が算定された経過は前記のとおりであるが、同金額は、仮に原告側において一日当り金七八九二円の支出を余儀なくされ、そのすべてを介護料に充てるとしても、新ホフマン方式により、逆算した場合四年間余の実費相当額に過ぎないこと(1030万÷〔789.2×365〕≒3.5756)が認められ、これはいわば、亡幸次郎の生存期間如何により大きく左右される介護料につき、客観的には原、被告側双方においてその危険を分配した金額と言っても過言ではなく、これに亡幸次郎の死亡に至るまでの症状、本件和解交渉の経過等を考慮すると、本件和解金総額は当事者に予想された損害の範囲を著しく逸脱し、これを破棄しなければ信義則に悖る場合に該るとは解し難く、したがってこの点の抗弁も採用できない。

二  本件訴訟は、実質的には不法行為に基づく損害賠償を求めるものであることは一に判示のところから明らかであるところ、原告らが同訴訟代理人に本件訴訟の追行を委任したことは記録上明らかであり、右認容金額、本件訴訟の難易、経過に鑑みると、原告らが同訴訟代理人に支払う報酬のうち、原告古賀イツヱについては金四五万円、その余の原告らについては各金一五万円は被告に負担させるのが相当である(本件訴状送達の日の翌日が昭和五九年四月一九日であることは記録上明らかである。)。

三  してみれば、原告らの請求はすべて理由があるから認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡邉安一)

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